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東京高等裁判所 平成元年(ネ)3312号 判決

控訴人 清水正己

右訴訟代理人弁護士 小室貴司

被控訴人 旭建設株式会社

右代表者代表取締役 福永征夫

右訴訟代理人弁護士 水島正明

主文

原判決中控訴人敗訴の部分を取り消す。

被控訴人の請求を棄却する。

訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。

事実

控訴代理人は、主文同旨の判決を求め、被控訴代理人は、控訴棄却の判決を求めた。

当事者双方の事実上の主張は、次のとおり付加、訂正するほか、原判決事実摘示と同一であるから、ここにこれを引用する。

原判決三枚目裏八行目の「送信され」から同一〇行目の「成立した」までを「送信されてきた」に改め、同四枚目表一行目の「締結し」を「締結した」に改め、同二行目の「、同日」から同三行目の「支払った」までを削り、同六枚目表三行目の「締結し」から同四行目「受けた」までを「締結した」に改め、同七行目の末尾の次に「後記三の手付は損害賠償額の予定としての違約手付の趣旨をも含むものである。」を、同九行目の冒頭「被告は」の前に「被控訴人は控訴人に対し本件売買契約の締結に際し手付金一〇〇万円を交付していたところ、」を、同裏二行目の「事実」の次に「のうち被控訴人が控訴人に対し本件売買契約の締結に際し手付金一〇〇万円を交付していたこと、控訴人が被控訴人に対して昭和六三年三月三一日に本件売買契約を解除したいと申し入れてきたことは認めるが、その余の事実」をそれぞれ加える。

(証拠関係)《省略》

理由

一  請求原因1ないし4についての当裁判所の認定判断は、原判決八枚目表一〇行目の「売却」を「売渡」に改め、同裏二行目の「右事実と」から同六行目末尾までを「右事実によれば、控訴人は被控訴人に対して昭和六三年二月九日に本件土地の売渡承諾書をファックス送信しており、《証拠省略》によると、控訴人は右売渡承諾書に本件土地を現況のまま価格一〇〇〇万円で売渡すことを承諾する旨記載しており、また、右書面には押印がないものの控訴人の署名があることが認められる。しかし、右売渡しの対象となっているのが不動産である上、後記認定の右売渡承諾書が差入れられた経緯及びその形式、更に同年三月八日正式に本件売買契約書が作成された経緯等をも考え合わせると、右売渡承諾書が被控訴人宛に送付された時点をもって本件土地の売買契約が成立したとまでは認め難く、この段階では控訴人及び被控訴人は右売渡承諾書の差入れを一種の売買の予約と観念していたものと思われ、本件土地の売買契約は同年三月八日の本件売買契約書の作成によって成立したものと認めるのを相当とする。」に改めるほか、原判決がその理由一において説示するところと同一であるから、ここにこれを引用する。

そして、抗弁事実のうち被控訴人が控訴人に対し本件売買契約の締結に際し手付金一〇〇万円を交付していたこと、控訴人が被控訴人に対して昭和六三年三月三一日に本件売買契約を解除したいと申し入れてきたこと(以下「本件解除の意思表示」という。)は当事者間に争いがない。

二  本件の争点は、控訴人の本件解除の意思表示が民法五五七条一項の手付倍額の提供をしてなされたものということができるか(第一の争点)、これが肯定される場合、右意思表示の時点までに本件売買契約の履行に着手していた旨の被控訴人の主張を認め得るか、特に被控訴人が再抗弁において主張するような行為をもって被控訴人が本件売買契約の履行に着手していたものということができるか(第二の争点)という点にある。そこで、まず、右各争点の判断の基礎となる事実関係(本件売買契約締結前後の事情)について検討する。

前認定の事実に《証拠省略》を総合すると次の事実が認められる。

1  昭和五七年頃、控訴人は被控訴人の出した広告によって被控訴人を知るようになり、被控訴人から静岡県熱海市網代字網代山六二七番四四七の土地(以下、同所に所在する土地については地番のみで表示する。)を紹介され、昭和五七年一一月二二日に右土地を四八〇万円で買受ける旨の売買契約を締結し、手付金一〇〇万円を除いた残代金の支払期日は同年一二月一〇日と定められていたところ、右期日前に被控訴人会社の担当者であった野口一雄から付近の本件土地に切り換えないかとの打診があり、控訴人としても右土地を気に入ったためこれに買い換えることとした。そこで、控訴人と被控訴人は、同年一二月七日、売主を被控訴人、買主を控訴人とし、売買価格を五五〇万円とする本件土地の売買契約を締結したが、右売買契約の契約書上、引渡しは現況有姿、道路舗装は控訴人が元地主の上田吉秀に一五万円を支払うことによって同人が責任をもってなし、電気水道工事代金は控訴人が負担することとされていた。しかし、右売買契約の実質的な売主は上田吉秀であり(同人は当時の所有名義人海保光枝の前所有名義人であった。)、被控訴人は実質的には仲介人であって、登記上も、右契約当時の所有名義人海保光枝から控訴人に対して同月一八日に所有権移転登記が経由された。

なお、本件土地は被控訴人が未開発の傾斜地を六ないし八区画にして売りだしていた土地(六二七番一〇三三、一〇三二、一〇三七、五九五などの土地)のうちの一区画で、他の土地も契約書上被控訴人が売主となっていたが実質的には被控訴人が仲介したものであり、いずれも道路等の整備をすれば建物の建築も可能であったが、そのためには相当の整備を要する土地であった。

2  控訴人は勤務の都合により昭和五九年頃から同六二年八月頃まで長野県に居住していたが、昭和六一年頃、かねて被控訴人以外の業者から購入していた静岡県熱海市下多賀の土地の売却方を被控訴人会社の野口一雄に依頼したことがあった。その後、控訴人が長野県での勤務を終えて肩書地に帰ってきた昭和六二年の秋頃、野口一雄は、右下多賀の土地は開発の見込みがないものの、本件土地は整備して転売すれば採算がとれるものと判断し、右土地は控訴人が購入してから五年近く経過しており、控訴人にも本件土地を売却する意向があるものと見越していたため、控訴人に対して本件土地は上下水道の敷設が困難で建築確認をとるのも難しいことなどを説明した上被控訴人が買取ってもよい旨の話を持ち込んだ。これに対して、控訴人は当時野口一雄を信頼しており、本件土地に野口一雄の言うような問題があるのならこれを売却して右売却代金をもって建物を建てられる土地に買い換えてもよいと考え、また、被控訴人が買い換えの土地については責任を持って紹介するというので、その後売買の交渉に入った。そして、同六三年一月頃、被控訴人は控訴人に対して最終的には一〇〇〇万円を提示し、控訴人も一応これを了承した。そこで、被控訴人は控訴人に対して売渡承諾書の用紙を交付して所用の事項を記載して返送するよう指示したところ、前記のとおり、控訴人は同年二月九日付の売渡承諾書を作成してこれを被控訴人にファックス送信してきた。

なお、本件土地と同様、前記六二七番五九五の土地(地目山林、二九八平方メートル、以下「五九五の土地」という。)も被控訴人の仲介によって昭和五八年四月に訴外角雅夫が六三〇万円で取得していたところ(登記上は当時の所有名義人吉満昭から角雅夫に対して同年五月九日に所有権移転登記が経由されたが、被控訴人が吉満昭に支払った代金は五〇〇万円であった。)、控訴人に本件土地購入を申し入れたのとほぼ同じ頃である昭和六二年一〇月頃、角雅夫は被控訴人会社の野口一雄から右土地を買値の三倍で購入したい旨の申入れを受けた。これに対して、角雅夫は野口一雄に昭和六三年五月で五年の長期譲渡にもなるのでその頃であれば売却してよい旨回答していた。

3  この間、昭和六二年一二月、被控訴人は本件土地及び五九五の土地の所有者である控訴人及び角雅夫に転売の意向があり、いずれ被控訴人がこれを買い受けた上転売して利益を得ることを企図し、まず転売先を確保することとし、本件土地を二七〇〇万円、五九五の土地を二五〇〇万円とし、「売地、熱海温泉、ペンション・研修所向き、造成渡、情報公開日同月一五日」などと表示した広告チラシ四四二〇枚を作成するなどした上、右各土地の転売先を確保すべく販売活動に入った(被控訴人がこのように転売活動を先行させることについて控訴人及び角雅夫の了承を得た形跡はない。)。

4  被控訴人は本件土地の販売について有限会社シティプラザに仲介を依頼していたところ、昭和六三年二月下旬ないし三月初め頃、有限会社シティプラザの仲介で訴外米田隆雄が本件土地を二七〇〇万円で購入したいと希望していることがわかったので、控訴人と有限会社シティプラザに連絡をとった上、控訴人と被控訴人間の売買契約及び被控訴人と米田隆雄間の売買契約(転売契約)を同年三月八日と設定し、まず米田隆雄との契約を有限会社シティプラザの事務所で行い、その後に控訴人との契約を被控訴人の事務所で行うことになった。こうして、同日、まず、被控訴人と米田隆雄間で有限会社シティプラザを仲介人として売買価格を二七〇〇万円、手付金を二七〇万円、最終残金の支払期日を同年四月一五日とする土地売買契約書(以下「本件転売契約書」といい、右契約を「本件転売契約」という。)が作成され、米田隆雄は被控訴人に対して右手付金を小切手で交付し、次いで、控訴人と被控訴人との間で売買価格を一〇〇〇万円、手付金を一〇〇万円、最終残金の支払期日を同年四月一六日とする本件売買契約書が作成され、被控訴人は控訴人に対して右手付金を現金で交付した(なお、同日、控訴人と米田隆雄が顔を合わせたことはなかった。)。

本件売買契約書は定型的な土地売買契約書であるが、同契約書には「売主は買主または買主の指定するものに対し最終残金時までに物件を完全に明渡し、且つ所有権の移転申請の手続を完了しなければならない。」(第三条)、「当事者の一方の本契約条項違背により契約が解除された場合、その契約解除が売主の義務不履行に基づくときは、売主は既に受取った手付金の倍額を買主に支払わなければならない。又買主の義務不履行に基づくときは、既に売主に対して支払った手付金の返還を請求することが出来ない。」(第九条)との記載があり、特約条項欄には「銀行ローン実行の都合で多少登記日の変更あり。」との記載がある。そして、本件転売契約書には、「物件引渡日昭和六三年四月一五日、但し金融機関の融資期日を優先とする」、「残金は売主の協力のもとに買主が金融機関より借り入れ、支払うものとする。」(第二条)、「本契約は買主が金融機関のローン借り入れを条件として締結するものであって、万一ローン借り入れ不可能の場合には売主は受領せる金員を全額買主に返還して本契約を解除するものとする。」(第一二条)との記載があり、特約条項欄には「雑排下水配管は、売主被控訴人が施工して売主が費用負担もする……(中略)……道路舗装について、舗装部分は別紙図面に依るものとする、施工は売主被控訴人が工事をして売主が費用負担もする。水道管付設工事は売主被控訴人が工事をして売主が費用負担もする。」と記載されている。

なお、五九五の土地についても、同年三月一七日、被控訴人と訴外安藤節子との間で売買価格を二二五〇万円、手付金を一〇〇万円、最終残金の支払期日を同年五月二日とし、特約条項欄の記載も工事等の期限が同年三月末日とされているほかは概ね本件転売契約の特約の記載と同内容の土地売買契約書が作成され、登記上は同年五月二日角雅夫から安藤節子に対して同日売買を登記原因として所有権移転登記が経由された。

5  本件売買契約成立後二週間ほど経過した頃、米田隆雄は融資を受ける銀行から所有名義人である控訴人の売却意思を確認するため本件売買契約書に控訴人の実印を押捺してもらった上その印鑑証明書の写しを添付するよう求められたため、これを被控訴人に伝えた。これを受けて、被控訴人会社の野口一雄は控訴人に登記手続用を兼ねて印鑑証明書を準備するよう連絡し、控訴人から印鑑証明書の写しの送付を受けた後、同年三月二九日、控訴人の勤務先に同人を訪ねて本件売買契約書に実印を押し直してもらった。その後、控訴人は勤務先である日本経済新聞社の関連の不動産会社の知人等から本件土地の近辺も地価が上昇しており本件売買価格は不当に安く、右代金で付近の土地の買換えは難しいとの助言を受けたため、本件売買契約の解約を申し入れることとし、同月三一日午前、被控訴人会社に電話を入れ野口一雄に控訴人の妻の父親が反対していることなどを理由に本件売買契約を解約したい旨を申し入れた。これに対し、野口一雄はすでに本件転売契約も締結し、米田隆雄から手付金を受領していたことから、控訴人に対して本件売買契約を解約するには手付の倍返しでは合わない旨を告げ、控訴人の右申入れを強く拒絶した。そこで、控訴人は電話ではらちが明かないと判断し、直ちに被控訴人の事務所に赴き、強く解約を申し入れたが、被控訴人は転売契約も締結されており一切右申入れには応じられないとの態度であり、午前一一時頃から二、三時間をかけて双方で話し合い、その中で被控訴人は代替の土地を紹介する等の提案をして控訴人の説得を試みたが当日は決着がつかなかった。

6  その後、控訴人は解約に伴う金員を被控訴人宛に振り込むことを考え、被控訴人に電話して銀行口座番号を問い合わせたが応じてもらえず、被控訴人が解約に応ずる気配がなかったため、取り敢えず被控訴人が紹介するという代替物件を見てみることとし、同年四月二日ないし四日頃、野口一雄の案内で代替土地を見聞した。しかし、控訴人は被控訴人が紹介した物件が気に入らず、控訴人は野口一雄に「契約は一切白紙にしてくれ」と告げて、前記解約の意思を再度告げて同人と別れた(なお、その頃、控訴人と野口一雄が本件土地内を見分したところ、切口の生々しい松の木の切株四、五本があった。)。これに対して、被控訴人は被控訴人代理人と相談の上、控訴人の翻意を促すべく、右代理人を介して控訴人に対して、同月六日付の内容証明郵便で控訴人の同年三月三一日手付解約の申出前に被控訴人は一連の転売準備作業に着手しており、これは民法五五七条の「履行の着手」に当たるから右手付解約の申出を認めることはできないので本件売買契約に従って誠実にその履行をするよう求める旨の書面を送付したところ、控訴人は控訴人代理人を介して、同年四月一一日付の内容証明郵便で同年三月三一日付の手付解約の申し入れを再確認し解約を求める旨の書面を送付した(ただし、右書面中には「手付金を放棄し、本件売買契約を解約したい」との記載部分がある。)。被控訴人は、本件売買契約の履行日も迫ってきたため、更に同月一二日付の内容証明郵便で控訴人に対して本件売買契約の履行方を求める書面を送付した。また、控訴人も控訴人代理人を介して、同年四月一三日付の内容証明郵便で右同年四月一一日付書面にある「手付金を放棄し、」とあるのは誤りであるとした上、手付金倍額を返還するので返還場所・方法の指示を求める旨の書面を送付した。

7  こうして本件売買契約の履行期である同年四月一六日も経過し、同年四月二七日被控訴人は控訴人を相手方として本件土地の処分禁止の仮処分申請をなして仮処分決定を得、次いで同年六月二〇日に本件訴訟を提起し、他方、控訴人は同年一二月二二日に手付金の倍額に当たる二〇〇万円を東京法務局に供託した。

8  前記のとおり、被控訴人は本件土地及び五五九番の土地の転売活動を昭和六二年一二月頃から進めていたが、同年二月頃からは右各土地の造成のための準備に取り掛かり、関係の業者に現地調査・測量、杭打ち、建築確認申請のための書類の作成等を依頼した。しかし、同年三月中に本件土地の前の道路整備、上下水道管敷設の工事は未だ着工されておらず、同年四月六日過ぎ頃本件土地の前の道路部分一二、三メートル程を整地して砂利をまき、その後、同年五月から八月にかけて縁石を置き、生コンクリートを敷く工事が施工された(なお、前記のとおり、同月初めの頃、本件土地内の松の木四、五本が伐採された)。本件土地及び五五九の土地の上下水道管敷設工事については、本件土地に隣接する所有者の私道掘削についての承諾が得られなかったため、上水道については迂回して本管から引くこととし、また、下水道については、六二七番六〇一の土地を通して配管することになり、右土地所有者から右土地を排水管設置のため無償使用することの承諾を得るため、同年三月二三日被控訴人は五九五の土地から六二七番一〇七九の土地を分筆する手続をなし、同年五月二日右土地を右所有者に譲渡する手続をなした。その後、被控訴人は同年六月頃以降に右各水道工事に着工したが、下水道管の敷設工事は配水管を埋設することなく地上に設置しただけの簡易なものであり、上水道工事は本件土地及び五五九の土地を含む被控訴人の造成に係る五軒分の給水を確保するためのものであった(付近には本件土地のほかにも被控訴人が造成中の土地が数カ所程あった。)。なお、本件土地について建築確認がなされたのは同年七月二五日であった。

9  この間、被控訴人は米田隆雄に対し、控訴人との交渉が難航しており、工事も進行していないことを理由に本件転売契約の履行をもう少し待ってもらうよう懇請していたが、結局、同年六月一四日本件転売契約は解約することになった。その後、被控訴人は米田隆雄に本件土地の代わりに六二七番四四〇の土地(山林、三三一平方メートル)を紹介し、同人もこれを気に入ったため同六三年七月一二日被控訴人と米田隆雄間で売買価格を二六五〇万円とし、本件土地の移転登記ができるようになった場合買主が希望すれば本件土地との交換を認めるとの特約を付した売買契約を締結した。

なお、五九五の土地についての被控訴人と安藤節子間の同年三月一七日付売買契約も問題が生じて同年一〇月一二日に合意解約された。

三  右事実関係に基づき、まず、控訴人の本件解除の意思表示が民法五五七条一項の手付倍額の提供をしてなされたものということができるかという抗弁に関する争点(第一の争点)について判断する。

控訴人が本件解除の意思表示をなすに至った経緯及びその後の事情は前記二の4、5認定のとおりであり、右意思表示の時点で手付金の倍額を控訴人が被控訴人に提供したかという点について、控訴人は原審及び当審における控訴人本人尋問において、昭和六三年三月三一日に現金二〇〇万円を被控訴人事務所に持参して現実に提供した旨供述しているけれども、原審証人野口一雄は控訴人から右金員の現実の提供を受けたことはない旨供述しており、また、控訴人本人の右金員の出所等についての供述は曖昧なものであることをも考慮すると控訴人本人の右供述から控訴人が手付金の倍額を被控訴人に現実に提供したとまで認めることはできない。しかしながら、右二の4、5認定の事実関係からすると、同月三一日控訴人が被控訴人に電話で本件売買契約を解約したい旨を申し入れた際、被控訴人は手付の倍返しでは合わない旨を告げて強く右申入れに応ずることができないという態度をとっていたのであるから、控訴人が手付金倍額を現実に提供しても被控訴人に受領の意思がなかったことは明らかであり、また、控訴人は被控訴人の銀行口座を問い合わせるなどしていたことからしても被控訴人が控訴人に対して手付金倍額の支払を求めれば控訴人もこれに応じたであろうことは推測に難くないのであって、被控訴人が不動産業者であり控訴人はその顧客であるという立場上の均衡をも考慮すると、同年三月三一日の本件解除の意思表示は民法五五七条の手付金倍返しによる解除として有効と認めるのが相当である。

四  ところで、前認定のとおり被控訴人は控訴人の本件解除の意思表示がなされた昭和六三年三月三一日の時点までに、本件土地及び五九五の土地の造成のための準備に取り掛かり、関係の業者に現地調査・測量、杭打ち、建築確認申請のための書類の作成等を依頼し、そのうち現地調査、杭打ち等若干の作業がなされ、また、同年三月八日には本件転売契約が締結されていたわけであるが、そのような行為をもって被控訴人が本件売買契約の履行に着手していたものということができるかという再抗弁に関する争点(第二の争点)について次に判断する。

本件売買契約については、その成立時に被控訴人から控訴人に対して手付金一〇〇万円が交付され、被控訴人は買主として、最終残金の支払期日(履行期)である同年四月一六日までに右手付金を控除した残代金九〇〇万円を控訴人の物件明渡し及び所有権移転登記と引き換えに控訴人に支払うべき旨が約諾されていたわけであるから、右契約成立後、被控訴人は控訴人に対して右残代金九〇〇万円の支払義務を負い、右履行期は専ら被控訴人の残代金調達上の便宜のために猶予が与えられていたものと解される。したがって、本件売買契約上の被控訴人の債務は右残代金を支払う義務であったことが明らかである。

ところで、民法五五七条一項が「契約ノ履行ニ着手スルマデハ」というところの「履行の着手」とは、当該契約上対価的双務関係にある債務の履行を指すことが明らかであるが、それは履行行為の一部をなした場合だけでなく、客観的に外部から認識し得るような形で履行の提供をなすために欠くことのできない契約上前提とされている行為をなした場合をも含むものと解することができ、本件のように買主の負う代金支払債務については客観的にみて当該契約上前提とされていた支払手段の具体的用意がなされた場合もその履行に着手したものと認めることができる。

これを本件についてみるに、被控訴人が履行の着手として主張する行為が被控訴人の負っていた債務の履行行為自体でないことは明らかである。そして、前認定の本件土地及び五九五の土地の昭和五七年以降の一連の売買の経緯等をみると、いずれも被控訴人は売買契約の一方の当事者となっているのに、その実質は仲介であり、被控訴人が売買契約上の当事者となっているのも転売差益を取得することによって仲介手数料以上の利益を上げるためであると推認されるのであって、転売先を確保するための準備を先行させ(既に昭和六二年一二月の時点で、被控訴人は控訴人らの承諾を得ることなく本件土地及び五九五の土地の販売活動に入っている。)、一部整備のための準備に取り掛かっていたのも専ら被控訴人側の都合に属することであり、被控訴人が右のような行為に着手していたことをもって本件売買契約の履行の前提行為をなしたということはできない(また、被控訴人が本件土地近辺の整備に着手していたのも、それは本件土地のためだけではなく、被控訴人が造成を計画していた他の五五九の土地等のためのものでもあり、このような観点からも右行為が客観的にみて本件売買契約に密接な関係を有するものであったとみることはできない。)。そして、前認定の事実関係を総合しても被控訴人の右のような行為を公平の見地から「履行の着手」と認めて売主の手付倍額償還による解除を許容しないと解すべき事情を見出すことができない。この点、被控訴人は右転売が本件売買契約の前提となっており、本件売買契約書の特約条項欄に「銀行ローン実行の都合で多少登記日の変更あり。」との記載があるのもその趣旨からである等と主張し、原審における証人野口一雄の証言中には右転売が本件売買契約の前提となっていたとの右主張に沿うかのような供述部分がある。そして、前認定の本件売買契約及び本件転売契約に関する事情からすると右特約が米田隆雄が銀行から融資を受ける上での都合を考慮してなされたことが推認され、本件売買契約締結の際、控訴人としても被控訴人がいずれ本件土地を整備した上で転売することは分かっていたものと思われるが、それ以上に被控訴人が控訴人に本件転売代金をもって本件売買代金の支払いに当てるというようなことの了解を得ていたとか、転売及びそのための整備が本件売買契約の前提となっていたとまで認めるに足りる証拠はないし(かえって、原審証人野口一雄の証言中には、三、四億の資産があって本件売買契約の残代金の支払いは造作もないことであるとの供述部分がある。)、むしろ控訴人としては被控訴人の転売関係は被控訴人が買取った後の問題で控訴人の関知することではないとの認識であったものと推認される。また、前認定のとおり控訴人が本件転売に積極的に関与したとも認められない。そして、仮に転売によって被控訴人の控訴人に対する残代金の支払ができる関係にあったとしてもそれは専ら不動産業者である被控訴人側の事情に属することであり、右特約も被控訴人側の都合上設けられたものというべきであって、そのことから転売及びそのための整備が本件売買契約の前提となっていたとまでいうことはできない。また、証人野口一雄の右転売が本件売買契約の前提となっていた旨の供述も必ずしも明確なものではなく、右証言をもってしても被控訴人の主張を認めるに足りないし、他にこれを認めるに足りる証拠もない(前認定の事実関係によると控訴人及び被控訴人のいずれも右金員が解約手付金であることを前提にして行動していたことが明らかであるが、仮に、被控訴人が主張するように右のような行為をもって「履行の着手」がなされたものとすると、本件売買契約成立時点ですでに本件転売契約は成立しており、また、被控訴人は既に一部整備のための準備に取り掛かっていたのであるから、控訴人は手付金倍額を償還して本件売買契約を解除することは事実上不可能となり、被控訴人が控訴人に交付した手付金は解約手付の性質を有しないものに変容してしまうことになって、右当事者間の認識に反する結果となる。)。

したがって、被控訴人の再抗弁は理由がない。

五  結論

以上の次第であるから、控訴人と被控訴人間の本件売買契約は、控訴人が昭和六三年三月三一日にした本件解除の意思表示によって解除されたものというべきであり、結局被控訴人の右契約に基づく本訴請求は理由がない。

よって、被控訴人の本訴請求を一部認容した原判決は失当であるからこれを取り消して右請求を棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法九六条、八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 丹宗朝子 裁判官 原敏雄 裁判官塩谷雄は転任につき署名押印できない。裁判長裁判官 丹宗朝子)

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